台湾 化学分野における「予期せぬ効果」に関する最新判例(液晶組成物事件)

Vol.120(2022年11月4日)

化学組成に係る発明において、当該化学組成が先行技術に対して予期せぬ効果を奏し得るか否かは、発明の進歩性の認定における最も重要な争点の一つである。知的財産及び商事裁判所は最近、DIC v. Merck Patent GmbHの訴訟の判決1において、台湾特許庁による審決を覆した。

本件において台湾特許庁は、当業者は先行技術に基づき、需要に応じて容易に調合することで、本件特許請求項1に記載の発明(以下、本件発明)で限定された特定の成分組成を獲得することができ、且つ同じ組成である場合、先行技術において開示されたものも本件発明と同じ効果を奏し得ると認定した。しかし裁判所は、本件特許において特定の化学組成の効果を証明できる充分なデータがあり、且つ当該効果が先行技術において記載されていない場合、当該効果は予期せぬ効果に属し、本件特許請求項に係る特定の化学組成は進歩性を有することを証明できると認定した。これにより、台湾特許庁による審決が覆された。

事件の概要

本件は、「メルク・パテント・ゲゼルシャフト・ミット・ベシュレンクテル・ハフツング(以下、Merck Patent GmbH)」が「DIC株式会社(以下、DIC)」が有する第I488948号特許「液晶組成物及びそれを使用した液晶表示素子」(以下、本件特許)に対して、本件特許請求項1~9は進歩性を有しないとして、無効審判を請求した事件である。台湾特許庁による審理の結果、本件特許請求項1~9について請求を認容する審決が下された。DICは審決に不服として訴願を提起したが棄却決定が下されたため、その後行政訴訟を提起した。台湾知的財産及び商事裁判所による審理の結果、本件特許請求項1~9は進歩性を有すると認定され、台湾特許庁による審決が取消された。

本件発明と引用文献7における主な技術的特徴

本件発明は、誘電率異方性、粘度、ネマチック相上限温度、低温でのネマチック相安定性、γ1等の液晶表示素子としての諸特性及び表示素子の焼き付き特性を悪化させること無く、製造時の滴下痕が発生し難く、ODF工程における安定した液晶材料の吐出量を実現する液晶表示素子に適する液晶組成物及びそれを用いた液晶表示素子を提供する。

引用文献7明細書段落【0001】、【0012】、【0013】~【0018】、及び一般式(1)~(4)において、下記の内容が開示されている。

光学異方性、負に大きな誘電率異方性、熱に対する高い安定性等の特性を有する組成物であって、

10~75質量%含有する一般式(1)で表される化合物から選ばれる少なくとも1種の第一成分化合物、

10~75質量%含有する一般式(2)で表される化合物から選ばれる少なくとも1種の第二成分化合物、

5~70質量%含有する一般式(3)で表される化合物から選ばれる少なくとも1種の第三成分化合物、

10~75質量%含有する一般式(4)で表される化合物から選ばれる少なくとも1種の第四成分化合物

等の成分を含有しても良い液晶組成物及びそれを使用した液晶表示素子。


本件特許請求項1 引用文献7
米国特許第2013/0062560A1号
一般式(I)で表される化合物群の中から1種又は2種以上選ばれる化合物を2~25質量%含有し、


(R11は炭素原子数1~3のアルキル基を表し、R22は炭素原子数1~3のアルキル基又は水素原子を表す)

式(4-2-1)化合物の含有量は10%且つR16は炭素数1から3の直鎖のアルキル基であれば、本件特許請求項1で限定された「R11は炭素原子数1~3のアルキル基、R22は水素原子」に該当する。
一般式(II)で表される化合物群の中から1種又は2種以上選ばれる化合物を3~9.5質量%含有し、

(Rは炭素原子数1~8のアルキル基、Rは炭素原子数1~8のアルコキシ基を表す)

実施例10において開示された式(1-1)である3-BB(2F,3F)-O2化合物5%は、本件特許請求項1で限定された「式(II)で表される化合物の中で、Rは炭素原子数3のアルキル基、Rは炭素原子数2のアルコキシ基」に該当する。
式(IIIb-1)で表される化合物を5~25質量%含有し、一般式(IIIa)で表される化合物を1種又は2種以上含有し、 (R3a及びR4aはそれぞれ独立して、炭素原子数1~8のアルキル基、又は炭素原子数1~8のアルコキシ基を表す)
式(2-1-1)化合物の含有量は10%、R15は炭素数3の直鎖のアルキル基、且つR17は炭素数2の直鎖のアルコキシ基であれば、本件特許請求項1で限定された式(IIIb-1)化合物に該当する。

式(6-1-1)化合物のR13及びR14は独立して炭素数1~8のアルキル基であれば、本件特許請求項1で限定された「式(IIIa)化合物の中で、R3a及びR4aはそれぞれ独立して、炭素原子数1~8のアルキル基」に該当する。
一般式(IV)で表される化合物を1種又は2種以上含有し、

(R及びRはそれぞれ独立して、炭素原子数1~8のアルキル基、又は炭素原子数1~8のアルコキシ基を表す)

式(3-1-1)化合物のR15及びR17は独立して炭素数1~8のアルキル基であれば、本件特許請求項1で限定された「式(IV)化合物の中で、R及びR6はそれぞれ独立して、炭素原子数1~8のアルキル基」に該当する。
シクロヘキセニレン基の環を有する化合物を含有しない。 引用文献7における組成物がシクロヘキセニレン基の環を有する化合物を含有しなければ、本件特許請求項1で限定された組成物に該当する。

従って、引用文献7明細書の複数の段落において、使用可能な化合物が幾つも開示され、当該複数の段落で開示された内容はそれぞれ本件発明に記載の式(I)とその含有量、式(II)とその含有量、(IIIb-1)とその含有量、式(IIIa)とその含有量、式(IV)とその含有量を包含している又はこれらと一部重複しているため、引用文献7の異なる段落において開示された化合物の中から選択し、組み合わせれば、本件発明の化合物群を得ることができる。しかし、引用文献7においては、本件発明で限定された成分の組み合わせや一部の成分の含有量範囲等が包括且つ特定的に開示されていない

台湾特許庁の見解

台湾特許庁は、引用文献7及びそれと他の引用文献との組み合わせにおいて本件発明の組成が開示されており、且つ同じ組成である場合、同じ効果を奏し得るため、本件発明は進歩性を有しないと認定した。その具体的な理由は以下の通りである。

引用文献7において本件発明の組成構造及び含有量が開示されているため、当業者は引用文献7及びそれと他の引用文献との組み合わせ又はそれらの技術内容の組み合わせにおいて開示された成分及び組成に基づき、需要に応じて容易に調合することで、本件発明で限定された特定の成分組成を獲得することができる。また、同じ組成である場合、前記引用文献において開示されたものも本件発明と同じ効果を奏し得るため、本件発明の効果は当業者が予期できるものである。よって、進歩性を有しない。

知的財産及び商事裁判所の見解

しかし裁判所は、台湾特許庁による審決を覆した。本件発明が進歩性を有すると認定した裁判所の主な理由は下記の通りである。

本件明細書における実施例、比較例、及び補充された実験データにより、本件発明は引用文献に記載されていない効果を奏し得ることが証明される

当業者が引用文献7において開示された異方性や熱に対する安定性等の特性に基づき、引用文献7において開示された組成物の成分組成を調整することは可能だが、本件明細書における実施例、比較例、及び原告が提出した補充実験データ等から、本件発明は滴下痕発生の防止やプロセス適合性(例えばODF工程における安定した液晶材料の吐出量等)等の効果を同時に奏し得ることが分かる。且つ引用文献7において、係る組成物が当該効果を同時に奏し得ることは開示されていない。よって、当業者は引用文献7に基づき、本件発明に係る、当該効果を奏し得る組成物を完成できるとは言い難い。

本件発明の効果が予期せぬものであるか否かは、先行技術に基づいて判断すべきである

本件発明の前記効果は当業者が予期できるものか否かについて、その比較及び判断の基準は本件明細書における実施例等ではなく、先行技術及び通常知識である。よって、Merck Patent GmbHが、当該効果または本件明細書における前記関連する記載内容は、当業者が前記先行技術または通常知識に基づき推論して知ることができるとは証明できないという前提の下で、特定の化合物及び当該特定の含有量範囲によって奏し得る効果は、当業者が当該引用文献(即ち先行技術)において開示された技術内容に基づき予期できるものであるとは言い難い。本件発明は進歩性を有しないという認定は事実無根であることは言うまでもない。

Merck Patent GmbHは、「本件発明において、式(II)化合物の含有量は3~9.5質量%であると限定されているが、本件明細書における実施例によると、当該式(II)化合物の含有量が11.5質量%と9.5質量%を超える場合であっても、滴下痕等に関する効果が示されているため、当該特定の含有量範囲は予期せぬ効果を奏さない」と主張する。しかし、たとえMerck Patent GmbHの主張が真実であるとしても、「式(II)化合物を3~9.5質量%含有すること」は「式(II)化合物を11.5質量%含有すること」に比べ、効果の増大が示されていないということが説明されるに過ぎないため、これによって「式(II)化合物を3~9.5質量%含有すること」が奏し得る効果は先行技術(又は通常知識)で知られている効果と比較して予期できるものであると認定できるとは言い難い。

更に、本件発明は当該「式(II)化合物を3~9.5質量%含有する」という限定のほか、特定の含有量範囲を有する式(I)、(IIIa)、(IIIb-1)化合物等の他の技術的特徴による限定も含まれており、本件発明の前記効果はこれら他の技術的特徴における先行技術に対する相違点により発生したという可能性もある。よって、当該「式(II)化合物を3~9.5質量%含有する」ことは11.5質量%含有する場合に比べ、効果の増大が示されていないということのみをもって、本件発明が奏する効果は当業者が(先行技術に基づき)予期できるものであると認定することは難しい。本件発明は進歩性を有しないという認定は事実無根であることは言うまでもない。

弊所コメント

本件発明と引用文献との主な相違点は、引用文献において本件発明で限定された化合物の組み合わせが明確に開示されておらず、各段落に分散的に記述されている点である。よって、当業者は引用文献に基づき、各段落から特定の化合物を選択し、本件発明で限定された化合物の組み合わせを得る動機が存在するか否か、及び得られた組み合わせが本件発明の効果を奏し得ることを予期できるか否かについて、台湾特許庁と裁判所との間で判断が分かれた。

裁判所は本件において従来主流であった台湾特許庁の認定基準を覆した

台湾では近年、医薬品関連発明の進歩性判断において、裁判官がアメリカの判決における理論をますます重視している傾向にある。したがって、特許権者又は無効審判請求人のいずれであっても、訴訟において勝訴となる確率を上げるために、アメリカの判決における理論を採用し正面又は反面から答弁を行うことが考えられる。

本件における台湾特許庁の見解は、現在の台湾特許審査実務で一般的に採用されている認定基準である。その主な内容は、下記の通りである。

たとえ先行技術において本願発明の効果が記載されていない、又は先行技術に記載されている効果の性質が本願発明の効果とは異なっているとしても、物の組成が同じであれば、本願発明の効果を奏し得ることは当然であるため、当該効果は予期せぬものではない。更に当業者は、需要に応じて先行技術において記載されている化合物の組成を簡易調合できるため、本願発明で限定された特定の組み合わせを容易に完成できる。このような見解に基づく拒絶理由は台湾でよく見られるが、後知恵であると思われる場合も多くある。

一方、本件において裁判所は、特許権者に有利な解釈を採用した。本件の見解は日本の特許審査実務(平成17年(行ケ)第10091号、平成19年(行ケ)第10298号、平成24年(行ケ)第10373号等)に近いものと思われる。本件における裁判所の見解をまとめると、下記の通りである。

先行技術において、特許権者が主張する本件発明の効果は確かに記載されていないため、当該効果は当業者が先行技術に基づき予期できるものであると認定できないことは当然である。更に言うと、本件明細書における実施例、比較例、及び特許権者が提出した補充実験データにより当該効果が証明される。したがって、本件発明は先行技術に対して予期せぬ効果を確かに奏する。

数値限定の選択発明の観点から見ても、本件における裁判所の見解では、進歩性に関する認定基準として比較的緩い基準が採用された。

また、本件原告、被告及び無効審判請求人は特に言及していないが、本件発明は先行技術に記載されている多数の化合物と含有量の中から選択したものであり、選択発明に属するものである。台湾裁判所過去の判例(110(2021)年度行専訴字第24号判決、最高行政裁判所104(2015)年判字第428号判決等)では、数値限定の選択発明で限定された数値範囲が臨界的意義を有することを要求してきたが、本件において裁判所はこの点を要求していない。裁判所は、「本件発明が効果を有するか否かは先行技術及び通常知識に基づき判断すべきであり、本件発明自身に基づき判断すべきではない。本件発明の含有量範囲が先行技術及び通常知識において記載されていない効果を奏することができれば、当該効果は予期せぬ効果に属することは当然である。一方、当該含有量範囲が特に優れた効果を奏し得る範囲であるか否かは、当該効果が予期せぬ効果に属するか否かという議論の対象外である。更に言うと、進歩性は請求項全体として判断すべきであり、請求項で限定された組み合わせの全体が先行技術に比べ優れた効果を奏し得るか否かで判断すべきである。」という見解を示した。

進歩性を証明するための最も強力な証拠は充分な実験データである

本件裁判所は数値限定の選択発明における進歩性について厳しい基準を採用せず、特許権者にとって比較的緩い基準を採用した。しかし厳しい基準であれ緩い基準であれ、このような化学分野における選択発明において、本件裁判所が何度も効果に関する内容を強調したことから、特許権者にとって勝敗の鍵はやはり実験データの完全性であることが分かる。本件において、本件明細書の実施例及び比較例は本件発明の効果を証明するには充分であったが、特許権者が訴訟期間内に更に補充した実験データは、本件発明で限定された化合物の組み合わせが奏し得る効果を証明する強力な証拠となり、結果として本件勝訴の原因にもなった。

[1]知的財産及び商事裁判所2022年行専訴字第15号判決

キーワード:台湾 特許 新規性、進歩性 判決紹介 化学 無効審判

 

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